ボルタンスキーの展示を六本木、国立新美術館で見てきました。
国立新美に行ったのはこれまた久しぶり...何を前に見たのかも忘れてしまったけど、広くていいよね。
大学からの友達MAYちゃんに誘われたので喜んで行きました。
いろんな友達がいろんな事を教えてくれて楽しい。
天ぷら定食も食べた。
天ぷら美味しい揚げ物美味しい。サクサク。
クリスチャン・ボルタンスキーの展示は初めて見るし作風も全然知らなかったんだけど、孤独そうだな〜ってなんとなく思いながらチケットを買いました。
最初の映像作品、「咳をする男」と「なめる男」で笑ってしまった。
多分ほとんどの人が「怖い」とか「気持ち悪い」とか「かわいそう」って思うんじゃないだろうか。
わたしとMAYちゃんはずっと笑ってた。
最初の作品でこれを持ってきたのになんの意味があるんだろ、ってずーーーっと考えた。
何が面白かったって、「え?」っていう疑問が転換されてされてだんだんおかしくなったというか、永遠「咳をして」「なめて」いるのが単純に滑稽に見えた。
かわいそうすぎて笑えるというか...。
わたしは滑稽に見えたけど、どうなんだろ、他にも笑った人はいるのかな。
一瞬見て出てく人多数、気持ち悪いのかな?
でもわたしは「なめる男」を2回目見た時(2回見た)、なんか気持ちがわかったんだよね。
こういう、狭くて暗い部屋で人形をただただ舐めてる、愛おしく、ゆっくりじっとり永遠に。っていうシチュエーションはいろんな形で皆にもあるんじゃないかな?
対照が「人形」で「なめる」っていうのが何にでも置き換えられると言うか、自分しか知らない愛するものに対する愛情の示し方、みたいなものをわたしは感じました。
「なめる男」のなめてる舌が綺麗で、これ作者本人かなーって気になる。
咳となめる男の「ボーーーー」っていう挿入音?が会場の途中まで響き渡って、この最初に見た映像のバックサウンドを聴きながら会場を回るのいいなって思いました。
とにかく全体的に照明も落とし気味で薄暗く、作品に照明を使っているものが効果的に揺れたり影を作ったりしていて、影絵の中に自分が立っていて、自分の影も作品と混ざっていくのが心地よい。
揺れる電球に作品の影ができ、自分の影ができ、一緒に揺れている。
「黄昏」という作品では、たくさんの裸電球が床に置かれているんだけど、毎日3個ずつ新美の展示会期中は電気が消えていくっていうインスタレーション作品。
「命のろうそく」っていう絵本を思い出した。
展示の最初と最後で変化が起きるって言うインスタレーションって時間の経過がストレートに見られていいなって思う。
もう一回行きたくなるしね。
カナダの寒そうな地に無数の風鈴を棒から吊るして映像を撮る作品は、広い会場でただひたすら風鈴が鳴っている映像が流れてるんだけど、会場の寒さも相まっていたのが良い。
めちゃ寒かった。笑
あれは意図的に寒くしていたのだろうか。
作品の前に長椅子があって、結構長い間二人でじっとしていた。
最初の映像が衝撃的と言うか、好き嫌いが分かれそうだけど進んでいくと結構素直な表現をする人だなって思いました。
現代アートは主張が強くてちょっと苦手だけど、この人は人それぞれの孤独に寄り添うような、鬱陶しくない感じ。
孤独の魂がたどる道って言う感じかなあ。
あんまし混んでなくてとても良かったです。
美術館と銭湯が混んでいる時ほど悲しいものはない。
明日は選挙だよ。
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